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「挫折だらけの人生だった。」と語る喜楽屋笑太はなぜ人力車を引くのか?

日本100名城、日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選に選ばれている長野県小諸市の懐古園。
この場所で人力車を引き続けて10年になる俥夫がいる。
小諸のオモロい人力車、きらく屋の喜楽屋笑太さんだ。
一時は、人生に絶望を覚えるまでにどん底を経験した彼がなぜ今、人力車を引いているのか。

喜楽屋笑太が人力車を引くようになるまで

小学校〜中学校時代

生まれは神奈川で、3歳から両親の地元である岩手で育ちました。
私は今でこそ接客業をしていますが、実は大の人見知りなんです(笑)。
小学校時代は引っ込み思案でおとなしく、アルバムなんか見ても色白で、まるで”女の子か!”ってくらいでした。
ところが中学校に進むと打って変わって活発なタイプになりました。
引っ込み思案な自分を変えたい、人前で表現をしたい、みんなに楽しい人だと思われたい、という気持ちから、学芸会でステージに上がって面白い事なんかをたくさんやったりしていました。
小学校時代と違って、主体的に自己表現が上手くいった時期で、まさに自分の中では”成功体験”でしたね。今振り返ってみてもすごく楽しい時間でした。

高校生時代

逆に高校時代は、一番戻りたくない時期ですね(笑)。
その時期は、人を楽しませたい気持ちが強い一方で、人前で表現する事にためらいも持っていました。
というのも、元々私の中学校は1クラス40人くらいで、いってもせいぜい2クラスまでだったんですが、高校に入った途端いきなり5クラスくらいに増えたんです。
それで私の中の”人見知り”が、再び顔を出してしまったんですね。
しかも、本当は空手部に入りたくてその高校に入ったはずなのに、入学した年になんと廃部になっちゃって、めちゃくちゃショックでした。 そこに追い討ちをかけるように人から頼まれて、入りたくもない応援団に入部してしまい、そこからが地獄の始まりでしたね…(笑)。 伝統校だったせいか、応援団のスタイルもいわゆる”蛮カラ”といって、制服をわざと破いてボロボロにしたのを着なければいけなかったり、髪を伸ばす事も禁止、恋愛も禁止、いつも無口でいなければいけない、おまけになぜか下駄を履いて登校しなければいけないという(笑)、硬派なイメージを持たれるための決まり事がたくさんあって、完全に自分を見失ってしまったんですね。
今考えても、なんだかモヤっとした3年間でした。
ただ、応援団やったお陰で声がやたらデカくなって、今ではどこに行っても「聞き取りやすい」と言われるんで、そこだけは良かったですけどね(笑)。

空手の内弟子時代

高校卒業後は、東京にある極真空手総本部の内弟子になるという道を選びました。
そもそも 私の高校は進学校だったので、みんな大学に行くのが普通でした。でも私だけ高2の三者面談の時「僕は空手の道に進みます。」と言ったので、先生はだいぶ慌ててましたけどね(笑)。
ちなみに内弟子とはどういうものかというと、道場に住み込みで空手の稽古や雑用をこなしながら、3年間空手の基礎をみっちり学ぶ、というものです。入る前は母親に猛反対されて、いつもぶつかっていました。母親は私に学校の先生になって欲しかったみたいです。
ただ、私が内弟子になったのには目的があって、空手の世界チャンピオンになりたかったんです。そんな夢を抱きながら稽古に励んでいたある日、当時、身長185cm、体重100kg近い世界チャンピオンがブラジルから来て、一緒に稽古をした事がありました。その時そのチャンピオンが放った軽い蹴りで、私は道場の端っこまで一気に吹っ飛ばれされてしまいました。
その事があってから、世界チャンピオンになるには、どんなに努力しても限界がある事を悟り、空手の道に見切りをつけました。
ただ私は内弟子だったので、世界チャンピオンにはなれずとも、卒業後はニューヨーク支部の支部長にならないか、というお話もいただいていたのですが、チャンピオンになれなければ意味がないと思ったのと、当時私の中に別の夢が芽生えていた事もあり、結局断りました。
その夢というのが「政治家」だったんです。
なぜそう思ったかというと、極真空手の創始者である大山倍達(おおやまますたつ)という人が書いた本に、こんな言葉が書いてあったからです。
「極真空手をやっている者の中から日本を背負う者が出てきて欲しい」
それを読んだ時、「どうせ世界チャンピオンになれないのなら、俺はこっちの道で一役買おう!」と思いました。それでこれからは「政治家」を目指そうと心に決めたんです。極めて単純ですね(笑)。

大学時代

3年間の内弟子生活を終えた21歳の春、一旦地元の岩手に帰り、空手の指導員やアルバイトをしながら、政治の勉強をしたり、政治塾に応募したりしました。でも2年経っても、一向に合格する気配はありませんでした。
このままだと政治家になるチャンスは一体いつ訪れるかわからない。
その時思ったのが「そうだ!だったら大学に行こう!」だったんです。

というのも、自分は政治家を目指しているくせに『経済』が大の苦手で、新聞を読んでいても経済欄はスッ飛ばして読むほどでした。だからまずはそれを勉強しようと。だけど空手の内弟子になる時親の反対を押し切って行ったので、今更親を頼るわけにもいきません。そこで大学は夜間で通える所にして、昼間はホテルで働きながら、夜学校に通う、という手段を取りました。そして24歳の春、私は再び東京に出たのです。

農業の分野に進む

大学もいよいよ卒業に近づいてきた頃、政治家として自分の言いたい事を世の中の人に聞いてもらうためには、一度何かの分野で結果を残さなければいけないと思い、まずは『農業』の道に進む事を考えました。
なぜ農業だったのかというと、大学時代に、「これからの時代は農業がますます重要になる。にも関わらず人材がとても不足している」という事を学んだからです。だから私は、自分で農業をやるというよりは、「これから農業をやる人の応援をしよう」というビジョンを持ちました。
そんな時、たまたまテレビで紹介されていたのが、長野県御代田町にある”農家育成”を柱とした会社でした。私は迷わずそこに入社する事を決めました。 ところがいざ農業をやってみると、本気で農業で飯を食っていこうとしている人間と私との間には、とても大きな隔たりがある事がわかりました。
「自分は農業自体をやりたいんじゃない、農業をやる人を”育てる側”になりたいんだ」という私の考えは、次第に自分を農業の本質から遠ざけていきました。今考えれば生意気だったんですね。
結果2年目にその溝は露呈してしまいました。最初の1年目に農業の基礎をきっちり学んで来なかったせいで、2年目になってから頼まれた仕事が何一つ思うように出来ず、先輩に怒られてばかりの日々が続くようになりました。
次第に私は農業の道も諦める事になりました。

人生最大の挫折を味わう

農業を辞めてしばらくの間は、すっかり無気力で抜け殻のようになってしまいました。一体今までの自分は何だったんだろう…。 空手の世界チャンピオンにもなれない、政治家にもなれない、農業も出来ない、結局何一つモノに出来ないままここまで来てしまった。
「俺はもう能無しの役立たずで、生きてる価値すらない人間だ…。」
今だから言えますが、実際”死”という選択肢が頭をよぎった事もありました。人間不思議なもので、そういう状態の時って、”死”というものが全然恐くないんです。
例えるならこちらの部屋からあちらの部屋に移動する、そんな感覚です。幸い私には寄り添ってくれる人がいたので死なずに済みましたけどね。
そんな時に、私の中に突然閃いた言葉がありました。
「人生には喜び、楽しみ、笑いが必要だ。それさえあれば何があっても生きていける!」
と。それはまるで天から降って来た言葉のようでした。そうして再び元気を取り戻した私は、これまでの自分を一旦リセットし、新たに生まれ変わったつもりで生きていく事になりました。歳は間もなく30歳を迎えようとしていました。

人力車の仕事を始める

そんな時たまたま小諸市観光協会(現:こもろ観光局)で人力車の俥夫(しゃふ)を募集しているのを見つけました。
それまで人力車なんて乗った事もないし引いた事もなかったけれど、何となく興味を惹かれた私は、早速応募する事にしました。
ただその時、同時進行で心理カウンセラーの勉強も進めていたので、面接の時に 「カウンセリングの資格が取れたら辞めます。」 と言ったんです。今考えると大変失礼な話ですが…。
すると面接官は、怒るどころかこう言ったんです。
「人力車引きながらカウンセリングすればいいじゃん!」 って(笑)。
その時はみんなドッと笑って聞き流していたんですが、いざ実際人力車を引いてみると、なんと本当にその通りになったんです!
私がただガイドをするだけでなく、時にはお客さんの身の上話を聞いてあげたり、人によっては他愛もない世間話だけで終わったりする時もあります。それなのに「あなたの人力車に乗って良かった!」とか「あなたの人力車に乗って元気が出た!」 と言ってもらえたりした時、「ああ人力車の仕事って、ただ人力車を引くだけではないんだな!」と実感しました。
そして初めて「ひょっとしてこれは私の天職かもしれない」と思いました。それから今年で早10年になります。4年前には、自分のやりたい事をより幅広く実現するために独立も果たしました。

事業について

ーー今はどんな事業をされているんですか?

”人とエンターテインメントの総合商社”というテーマで『カンパニーきらくしょー』という会社を立ち上げて、メインで人力車の仕事と企画・イベントのお手伝いをやっています。

カンパニーきらくしょーのホームページはこちら

喜楽屋笑太さんのtwitterはこちら

ーー「喜楽屋笑太」にはどんな意味が込められていますか?

「喜楽屋笑太」というのは芸名になります。 先程お話しした、10年前に挫折から立ち直るきっかけとなった言葉が原点になっています。私の人力車に乗ってくれた人、あるいはサービスを利用してくれた人全員に、喜び、楽しみ、笑いを届けたいという思いで付けました。ただの”人力車を引く人”ではなく、その方が私のコンセプトが伝わりやすいかなと思って。

ーー人力車の仕事のいいところを教えてください

たくさんありますよ!

時々有名人に会える事(笑)。

例えば松本に2年に1回歌舞伎の興行が来ます。
その時は有名な役者さんを乗せて、たくさんの人に囲まれながら街中を練り歩くんですが、これはもう俥夫冥利に尽きる仕事です。
それと私が普段人力車を引く懐古園にも、テレビの取材なんかがよく来るので、普通は滅多に会えないような人に会う事が出来ますね。いつか私の大好きなジャッキー・チェンも来ないかなぁ…と思ってます(笑)。

日本中を旅出来るところ

こう言うとまるで寅さんみたいですけどね(笑)。よくイベントや結婚式なんかで県内や県外に呼ばれる事も多いんですが、それに加えて私の場合は、冬の間の約3ヶ月〜4ヶ月の間、全国巡業の旅に出ます。
まだ九州からスタートしたばかりですが、今まで見た事もないような景色の中で人力車を引いたりなんかすると、私も初体験ですがお客さんも初体験なので、行く先々で喜ばれます。旅と実益を兼ねた、人力車ならではの試みです。

たくさんの人を元気に出来るところ

国内外問わず、まさにたくさんのお客さんが懐古園にいらっしゃいます。 その一人ひとりが、みな何かしらの悩みを抱えながら日々生きてるわけです。
そんな皆様が、たまたま縁あって私の人力車に乗ると、最後はめちゃくちゃ元気になり喜んで帰っていく、それを見るのが何より嬉しい事ですね!

ーー人力車の仕事の悪いところを教えてください

うーん、基本的に”楽観主義者”なんで、悪いところはあまり思い浮かばないんですが、強いて言えば天候に左右されるところ、ですかね。梅雨時や台風の時なんかは、当然営業する事が出来ないので。
寅さんの言葉に「テキヤ殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降りゃあいい。」という台詞があるのですが、俥屋(くるまや)も同じでございます(笑)。

若者に向けて

ーー笑太さんのように人に愛されるコツを教えてください

愛されてるかどうかはわかりませんが(笑)、私が気を付けているのは、相手と接している時に自分も楽しい気持ちでいる事ですね。
ただ、私もそれが最初から出来ていたわけではありません。相手に何か価値を与えなければ、と思っていた時は、逆に滑ったり 相手を緊張させたりして、かえって空回りしていたように思います。
でも今になってやっと肩の力が抜けるようになりました。”自分は大した人間ではない”と自覚し、別に弱い部分を見せてもいいやと思ったら、逆に強くなれました(笑)。

ーー人生は楽しいですか?

めちゃくちゃ楽しいです!
今までの人生、自分がやりたいと思った事には全てチャレンジしてきました。
空手の内弟子になって、世界でトップレベルの指導者やチャンピオンと会う事もできたし、高校を卒業してすぐには行かなかった大学も、25歳で初めて「勉強したい」と思って行ったからこそ感じられた事、学べた事がたくさんありました。
結果論ですが、全ての夢に全力でぶつかって来たからこそ、たくさん失敗もしたけれど、その全てが私の糧になっています。
おそらく最初から人力車を引いていたら、今の私はいなかったでしょうね。

ーー人生の中で出会って良かった人はいますか?

全員良かったですよ(笑)。でも 強いて挙げるとすれば、中学時代の恩師と、極真空手の松井章奎(まついしょうけい)館長ですかね。
どちらも人間的に尊敬していたし、男としても憧れてましたね。
松井章奎館長についてはこちら
中学時代の恩師は、私に人生や空手の世界を教えてくれた人です。そしていつもふざけてばかりいた私だったのに、卒業アルバムには
「真面目さゆえに人生を厳しく見つめる。正樹(本名)に栄光あれ!」
と記してくれました。さすが先生はお見通しでした(笑)。
極真空手の松井館長は東京で内弟子生活を送っていた時の指導者です。
いつもスマートでカッコいいし、人間離れしたオーラを持っている人で、言葉の一つ一つに重みがありました。同じ空間にいるだけでも影響を受ける、そんな人物でした。
ましてや19歳から21歳という、普通なら最も遊べるはずのこの時期に、あえて松井館長の下で余計な事を考えずに修業に打ち込む事が出来たのは、とても大きな財産になっています。

ーー笑太さんにとって幸せとは?

私と接して相手が楽しそうにしてくれる、それが私にとっての幸せですね。

ーー好きな事を仕事にするコツを教えてください

自分の気持ちに忠実になる事です。あとは何よりも覚悟が必要です。
実は、好きな事をやればやるほどラクではなくなります(笑)。でもそれをやり通すには、覚悟が一番大事です。
私で言っても、人力車の仕事が毎日楽しいわけではありません。雨の日やお客さんが一人も来ない日だってあるわけです。
それでもここまで続けて来れたのは、「俺にはもうこれしかない!」という覚悟があったからです。

ーー「やりたい事がない」、「何をやったらいいのかわからない」と言う若者にはどんな言葉をかけますか?

うーん、 難しいですね…。
私は常にやりたい事があったので(笑)。
その代わり”できる事”が追い付かなかったので、失敗もたくさんしましたが…(笑)。
でもそのお陰で、私は”できる事”と”やりたい事”が今では完全に一致しています。 ”できる事”と”やりたい事”を天秤にかけた時、絶対に”やりたい事”の方がリスクは高くなります。
その時「リスクがあるから”やりたい事”をやらない」のではなく、「いつかやれるかも」 というフォルダに残しておくといいかもしれませんね。
そうすれば”できる事”が”やりたい事”に追いついた時、きっと実現する事ができますから。

ーー最後にこの記事の読者に向けて送りたい言葉を教えてください。

「喜」ですね。みなさん一人ひとりの人生に、いつも喜びがある事を願っています!

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