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児童養護施設 飯山学園 – 宮下順さん

ご覧いただきありがとうございます!オンクリの牧野です!
今回オンクリインタビューでお話を伺ったのは、児童養護施設 飯山学園で園長をされている、宮下順さんです。
言葉や表情から伝わる優しさ・温かさに、インタビュー初挑戦の私の緊張もほぐしていただきました。
飯山学園ホームページ

児童養護施設との接点はどこだったのか、またご出身の富山県から長野県に移り住んで働くようになったきっかけなど、興味深いお話をたくさん伺うことができました。

「児童養護施設」というものを知らなかった

ご出身は富山県だそうですね!なぜ飯山に?

特に意味はないんです(笑)。
田舎の高校生あるあるで、高校を卒業して、関東の方の大学に進学して。
その後東京で就職をして、転職先が飯山学園だったっていう。

もともと児童養護施設で働くことを目指されていたんですか?

大学在学中、学習支援ボランティアに参加していたのがきっかけです。
晩飯がもらえるんですよ(笑)。
それまで苦労知らずだった自分は、大学生になってなんとか飯を食わなきゃいけないとなった時に、そのボランティアが魅力的だったんです。
それまで「児童養護施設」なんて知りもしなかった。そんな世界があるなんて、これっぽっちも。

そんな出会いが…!

「飯が食えるならどこにでもいきます!」という感じで、それが児童養護施設との運命の出会いだったんです。
4年間ボランティアを続けて、卒業後も半年くらい続けていました。

途中から施設の管理棟の宿直のアルバイトをするようになりました。
これを大学卒業後も続けていて、会社勤めとかぶっていた時期もあったんです。

会社員時代はどんなお仕事をされていたのですか?

ボランティアと並行して学生の頃からイベントスタッフみたいなアルバイトをしていて、裏方や音響を散々やっていたんです。
そのイベントのディレクションをする会社に誘っていただいて就職しました。

大学在学中の経験から、ずっと児童養護施設で働きたいと思っていたので、最終的には転職を考えている旨も話した上で就職して、3年ほど働きました。

飯山学園との出会い

転職先に飯山学園を選んだのはどんなきっかけが?

地元である富山には児童養護施設が少なく、ここだけで探しても無理だなと。
自分がどうやって生きていきたいか考えた時に、果物とスキーは外せないと思い、「雪が降る地域」「果物が美味しいところ」で探し始めたんです。

インターネットも全然ないところで、社会福祉協議会さんに連絡をして、いろんな県内の児童養護施設一覧を取り寄せて、往復ハガキを端から送りました。

そもそも当時は今に比べて施設職員の数が少なかったんですね。
さらに男性職員の募集は少なくて、あっても欠員補充。それすらも滅多にない中で、唯一、ハガキが返ってきたのが飯山学園だったんです。

後から聞いた話ですが、僕がボランティアで通っていた施設と飯山学園とそれぞれ知り合いだった、県内のある施設の施設長さんが、媒介役となってくださったそうです。

わあ、これも運命ですね!
まずはいちスタッフとして、どんな活動をされていましたか?

児童指導員として複数のケースワークを担っていました。

子どもたちと繋がったと思ったら、やっぱ違った…っていう、ガクッと落ちることがよくありました。
やっとコミュニケーションが取れてきたな、繋がってきたな、と思っていたら、数ヶ月に渡って大量万引きを繰り返していたり。

子どもたちが抱える大人への不信感の深さは、1ヶ月2ヶ月話したくらいでなんとかなるもんじゃない。もっともっともっと真剣に子どもたちと向き合っていかないといけない世界なんだなと知りました。

やりがいを得にくいというか、やりがいだと思ったものって実は幻だったんだ、みたいな。逃げ水を追いかける、ザルに水を汲んでいるような感覚が続きました。

簡単に言っていいかわかりませんが、難しい…ですよね。
やりがいを得られたと感じたエピソードについても、ぜひ伺いたいです。

ある時、本当に当時手がかかって、高校を中退せざるを得なくなってという子が、結婚して子どもができて何かのきっかけで遊びにきてくれたんです。
その時子どもを連れてきていたので「ジュースでも飲むか」とジュースを渡したら、「ほら、ジュースもらったらなんて言うの?ありがとうでしょ?」とやっているのをみた時に、この子に対してやってきたことは間違ってなかった、これがやりがいだ!と感じました。
初めて逃げていかないやりがいを得られた経験でしたね。

他にも、京都に用事があり出かけた際に、卒園して大阪に住んでいる子とパフェを食べたんです。
その時その子が、「私は飯山学園で育てられてよかったと思ってるよ」と言ってくれて。
この仕事のやりがいってこういう時間を持つことだなと思いましたし、アフターケアの重要さも感じました。

飯山学園の園長に就任

42歳の歳に、当時の理事長に呼ばれて。
当時、処務 兼 指導員として働いていたので、年度末に呼ばれたということは予算の話だろう、と予算を持って行ったら、「それもそうだけど、それじゃない。お前、4月から園長な」と言われたんです。
本当に突然でしたね。就任まで1ヶ月もなかったです。

本当に急ですね!?
園長になられてからも、現場でお仕事を?

僕は現場上がりの人間なので、宿直も入れてもらってます。
去年なんかは男性職員が不足していたので、4つのグループホームを回るような形で宿直ができました。
子どもたちともコミュニケーションが取れてよかったです。

園長として、意識や考え方の変化はありましたか?

自分が見ていかなければならないものが、子どもじゃなくて職員なんだと頭では分かっていましたが、切り替えに時間がかかりました。
子どもの成長のプロセスに携わっていくのが自分の仕事だと思っていたので、本当に腹落ちできた・覚悟が決まったのは、去年(延長就任から)ですね。
上手くできないから逃げてきた部分もあったけど、もう逃げられない、しょうがない、とやっと落とし込めました。
やっと落ちたところなので、ノウハウはこれから。

今後の取り組みや、目指していく姿について教えてください。

今年、園舎の建て替えを行うんです。場所も移転して。
色々準備してきたつもりではあるのですが、ここへきて資材がどんどん高騰してきているので、金策にも力を入れないといけません。

その先は、やっぱり働きやすい職場づくりですね。
よくブラックだと言われますが、そういう部分がないとは言えません。放っておけばそうなります。

やっとの思いでここに辿り着いた子どもにとって、そこにいる大人が信頼・信用できて、安全を担保してくれて、話を聞いてくれて、耳を傾けてくれて、自分の方を向いてくれて… でなきゃいけないと思うんです。
隷属を求めているわけではないけど、少なくとも対等な存在であってほしい。
プライベートを潰す必要はないけど、子どもと真摯に向き合ってほしい。
そんな職員集団を作っていきたいと思っています。

だからこそ、管理者側が頑張ってブラックをグレーにしていく、グレーを維持することに力を注ぐ必要があります。

若者に向けて

人生で大切にされていることを教えてください。

ズルはしない」というのが、なんとなく自分の中で、あるな。
(亡くなった)ばあちゃんが見てはるで、と感じるところがあって。
変にズルをして、チクチクと心に残っているところに、何か悪いことが起きると「あ、あの時の…」と結びつけてしまうんです。小心者なので。
モラルとか、そういうレベルの話ではなく、「正直」でいることで単に僕自身が楽でいられるんです。

最近になって、面倒が嫌い、楽をしたい、それに注力してると気づきました。

若者に送る言葉をお願いします。

白と黒の間にグレーがあって、グレーの範囲がほとんどで。
そのグレーの部分を認めてあげられると、すごく楽になると思います。
見方や立場を変えれば、正しいと思っていたことは正しくなかったりしますよね。

そもそも世の中のほとんどのことはグレーで、それを認められる、愛せるようになると、楽だぜ〜と。
だし、世の中に「絶対」なんてない。
僕の座右の銘である、「臨機応変」という言葉も送らせていただきます。

取材を終えて – 牧野

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。牧野が帰ってまいりました。

「僕の人生なんて薄っぺらいけどいいのかな」と宮下さん。そんなわけないでしょうとお話を伺ったら、本当にそんなわけなくて、私が人生相談をしてもらっているみたいでした。

「グレーを愛す」のはきっと私が苦手としていることで、正解を選ばなきゃいけない・成功しなければいけないとどこかで思ってしまっているんですよね。似たような方、いらっしゃいませんか?
宮下さんはそれを聞くと、「そうか、正解を選ぼうとするからしんどいのかもね。選んだものが正解なんです。そう思えたらすごく楽かも。僕はそう思ってきた」とアドバイスをくださいました。

この取材中 宮下さんは「僕が生きてきた中での経験則だけど」と念押しされていて、私もこうありたい…と思いました。
誰かに何かを教えよう・伝えようとする時、押し付けないことってすごく大切だと思います。
私も「こうした方が良い(ほぼ強制)」みたいなことを言われたことは山ほどありますが、言ってきた人は責任をとってくれないことが多いです。
自分自身が選ぶ余白を作ってあげることで、本人も責任転嫁せずに自分を顧みることができるんじゃないかなと。
もちろん経験則です😉

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