目次
まえがき
オンクリのディレクターの土屋です。
この記事で書くのは、
「オンクリって、結局なにを考えながら作ってる会社なの?」という話です。
もし「そもそもオンクリって何してる会社?」が先に知りたい方は、
下のリンクをクリックして、先にそっちを覗いてください。
僕が勢いで、2021年1月4日に作った会社は、
2026年2月6日現在、形を少しずつ変えながら、
なんとか資本主義という大きな川に浮かんでいます。
沈みそうになっては、浮き輪を探して、また漕いで。
そんな感じ。
創業してからの5年間は、まあ、忙しかった。
もらえるはずのお金が数百万円単位でもらえず、
飲み込むしかなかったこともある。
3ヶ月先の仕事が決まっていなくて、焦った日もある。
忙しすぎて、2日寝なかった日もある。
オンクリを始めたから出会えた人がたくさんいる。
その一方で、オンクリを始めたから、
うまく関係を続けられなかった人もいる。
近づいた分だけ、遠くなった人もいる。
そういうこともあった。
最近、実感として思うのは、
この5年間ずっと、僕が持っているもの――
多少の技術とか経験とか、それを社会に発信して、
会社を続けてきたんだな、ということです。
今っぽく言えば「アウトプット」なんだけど、
だからといって「インプット」をしてこなかったわけじゃない。
ただ、何かを学ぶためだけに座る時間は、
振り返るとあんまりなかった。
その代わり、
作って、渡して、反応を見て、また作る、を
ひたすら繰り返してきた。
そういう意味の「インプット」は、
結構あったと思う。
もちろん、いいことばかりじゃない。
疑われたり、怒られたり、
逆に感謝されたり、尊敬されたり。
多くの人は、そういう反応を見て
「自分の行動は正しい」
「これはやめた方がいい」
と決めると思う。
でも、僕はどうも、それが得意じゃないらしい。
合理性はわかる。納得もできる。
でも、周りの反応を見て
「こっちが正解だ」と理解したとしても、
身体がそっちに動いてくれないことがある。
これをかっこよく言えば、
「信念を貫く」なのかもしれないし、
別の言い方をすれば、
「ちょっと不器用」で済む話かもしれない。
あるいは、もっと正直に言えば、
「人の気持ちの取り扱いが、上手じゃない」
ってやつだと思う。
前に、養老先生がYouTubeで話している動画を見て、
こんなことを言っていました。
「人は歩こうと思ったら脚が出るし、
眠ろうと思ったら瞼を閉じて横になる。
でも自分の行動って、本当に制御できていますか。
目の前の他人が突然拳を振り上げたら、
無意識に身を守るでしょう。
眠くなったらいつかは寝る。
脳が体に命令するより、
体の方が先に動いている、という研究もあるんですよ」
最初はよくわからなかったんだけど、
じわじわ思ったんです。
もしこれが本当なら、
「自分」というものは、
脳だけじゃ説明できないかもしれない。
だって、お昼ご飯に親子丼を食べたい理由に
「なんで?」を十回繰り返しても、
最後は「なんとなく今その気分だから」で終わる。
そうなると、
僕が自分だと思っている脳みそは、
もっと深いところにある“なにか”に動かされている。
話が飛んだようで、
たぶん飛んでないんだけど、要するに。
自分の根っこの部分――
主導権を握っている無意識みたいなものは、
簡単には変えられないんじゃないかと思うんです。
だから、社会の反応とか、
周りの意見とか、
コミュニティの空気とか。
それらが「良い」「悪い」を決める力を持っているのはわかるけれど、
無意識の深いところとは、
案外、直接は繋がっていないのかもしれない。
せいぜい、たまたま一致したときに
「これでいいんだ」と思える。
一致しなかったときは、
「これが信念です」とか
「自分らしさです」とか、
そんな言葉で後から説明をつけているだけ。
正しさにも、ずれにも、理由を貼っている。
そういうことなんじゃないかな、と。
だから僕は、
人が「本当の自分」とか
「やりたいこと」とかを語るのを聞くと、
めっちゃ、わかる。
でもそれって案外、言葉が追いついてないだけかもしれないな、とも思ってしまう。
この記事は、
そんな最近感じていることを、
いったん全部書いてみようと思います。
創業当時の心境を思い出してみる
2021年1月4日、
株式会社オンクリの前身となる「オンクリWeb」を開業しました。
この時はまだ法人じゃなくて、
フリーランス(個人事業主)でした。
さらに遡ると、僕はめちゃめちゃ普通に、
地元の普通の小中高を過ごして、
ITエンジニアの勉強をする専門学校に進学。
そこから地元の会社に就職して、
1年半働いたのち、フリーランスとして独立しました。
独立した理由はいろいろあるけど、
大きいのはたぶん3つ。
1つ目
僕には――というか、僕の無意識には、
妙な野心がありました。
「自分は人と違う」
「いつかでっかくなる」
みたいな、根拠のないやつ。
その指標のひとつがお金で、
このまま会社員を続けていても、
“ビッグになってる自分”があんまり想像できなかった。
2つ目
ルールや仕組みに、合理性だけじゃなく、
人間味みたいなものも感じられなくなったこと。
枠の中にいるほど、
呼吸が浅くなる感じがして、
「これは出るしかないな」と思った。
3つ目
病気です。
僕には潰瘍性大腸炎という病気があって、
2〜3年に1度、症状が悪化します。
悪化すると、腹痛と貧血で、常に体調不良。
外出も難しい。ずっとしんどい。
治療法もなくて、
根性でどうこうなる話でもない。
ただ、フリーランスになれば、
働く場所の縛りは少し薄くなるだろう、とは思いました。
この3つから解放されるために、独立を決めました。
当時は、独立して謎の自信があって、
「まあ、なんとかなる」と思っていました。
でも蓋を開けたら、3ヶ月間、売上は¥0。
完全に社会を舐めてました。
当たり前なんです。
僕はエンジニアなので、営業なんてしたことがない。
誰のどんな課題が、どこに集まるのかもわからない。
たぶん僕は、
北極のど真ん中に、かき氷の屋台を出したみたいな状態だったと思う。
しかも、移動しない。
叫ばない。
看板もない。
さすがに貯金が尽きて、尻に火がつきました。
そこから先は、しのごの言ってられない。
どこでもいいから、自分の商材をアピールしようと決めた。
暑いところなら、
かき氷が売れるかもしれない。
でも創業したての僕に、
そんな“売れる場所の知恵”なんてあるわけがない。
だから、とにかく場所を移動して、
「かき氷持ってます!」と叫び続けるしかなかった。
恥ずかしいし、
白い目で見られた気もする。
でも関係ない。
来月、生きていくお金がない。
そうやって動いているうちに、
だんだん分かってきました。
「あ、ここにいる人たちはこういうものを求めてるんだ」とか、
「この人たちは、技術そのものより、
若さに可能性を見て頼んでくれてるんだ」とか。
とにかく、質より量。
量を出せない人間に、
需要とか、効率のいいやり方なんて、
見えてこないと思う。
死に物狂いで営業して、
仕事が少しずつ増え始めました。
創業して半年くらい経った頃。
一番貯金があった時ですら50万円だった僕の通帳に、
「¥4,000,000」という文字が印字されました。
嘘かと思って何度も眺めたけど。
当時の僕は、
お金の扱い方もよく分かっていなかったので、
亡くなったばかりのじいちゃんのお仏壇に、
そのページを開いて供えておきました。
今思うと、だいぶ変です。
泥棒が入ったら、
印鑑とセットで真っ先に持っていくでしょう。
最強のチームは半年で崩れ去った。でもまた最強のチームができた
個人事業主として始めて、半年。
ちょっと波に乗ってきた事業に浮かれて、
僕は完全に調子に乗ってました。
その時に考えたことはシンプルです。
「よし、仲間を増やそう。」
幸い、周りには優秀なWeb周りのクリエイターがたくさんいた。
しかもみんな、当時はそこまで忙しく働いてるわけでもなかった。
クリエイターって、だいたい営業が得意じゃないし、
「働く」ことが「生きる」の中心にない人が多い。
クリエイターだからそうなるのか、
そう思うからクリエイターになるのかは分からないけど、
まあ、そういうものだと思う。
まず、今もオンクリのメンバーでもある牧野さんに声をかけました。
牧野さんは前の会社の先輩で、
デザインやコーディングなど、いろんなことで助けてもらった。
僕はエンジニアだったので相性もよくて、
二人でやればできることが一気に広がる気がした。
そして、当時どうしても外せなかったのが僕の兄です。
僕は昔から、人を引っ張る立場とか、
尊敬されるとか、
そういうのが得意なタイプではなかった。
でも兄は違う。
いつも何かの中心にいた。
僕は兄のやったことを真似して、並び、追い越そうとして、
大人になるための考え方や、生き方も、
だいたい兄の影響を受けてきた。
構図としては、
兄を社長にして、僕が制作チームを担当する。
そんな未来を思い描いていました。
だから兄を毎日説得して、会社を辞めてもらって、
創業半年のオンクリWebに入ってもらいました。
兄が代表、僕が制作担当で。
夢を語ったし、
実現したいこともたくさんあった。
性格は真逆だけど仲も良くて、
正直「最強のチーム」だと思ってました。
で、先に結論を言うと――
これは、全然うまくいかなかった(笑)
兄は制作について詳しくないし、
Webのこともほぼ分からない。
結局、仕事のほとんどを僕が一人でやることになった。
方向性も決裁権も、
自然と僕が握る形になった。
兄はこれまでの人生で、
僕との関係性の中で、主導権を持っていた。
ポケモンも兄が選んでいない方のバージョンを選んだし、
ワンピースのフィギュアも、
ルフィとサンジは兄で、
僕はウソップとチョッパーだった。
そういう、細かいところからずっと。
だから、きっと耐えづらかったんだと思う。
兄という仮面、みたいなものが、
少しずつ軋んで、割れていった。
そうなると起こることは、まあ、だいたい一つです。
噛み合わない。
深い話ができない。
不満が溜まる。
ぶつかる。
結果、兄は事業を離脱しました。
描いていた未来は、半年で崩れました。
今思うと、
僕は誰かに決断を任せるのが、
あんまり得意じゃなかったんだと思う。
兄がいたから繋がれた人もたくさんいたし、
それは僕も同じ。
最強のチームだったのかもしれないけど、
兄弟という関係性が、それを難しくした。
それからサントスさんにも声をかけました。
サントスさんも前の会社が一緒で、
海外のビッグネーム企業でエンジニアをしていたこともあり、
僕のエンジニアとしての師匠みたいな存在でした。
人柄はめちゃくちゃ穏やかで、
よく冗談を言う人。
この人とどうしても仕事がしたくて、
創業時はお金もなかったけど、とにかく誘った。
今思えば、
牧野さんが入ったことで「幅」が、
サントスさんがいることで「深さ」が、
段違いになった。
「今働いている会社の給与分は保証します」と伝えたら、
思ったより給与が高くて(笑)。
サントスさんが在籍した1年半、
僕の給与は¥100,000でした(笑)。
減った仲間たち
ちなみにこれまで、
正社員としてオンクリを退職した社員は
(兄を除くと)3人います。
小さな会社だけど、
いち経営者として、人が減るときに思うことはひとつ。
寂しい(笑)
オンクリは多分、自由度の高い会社です。
いい意味でも、悪い意味でも。
だから人が辞めるときは、
環境がどうというより、
その人の考え方や信念によるところが大きい気がします。
簡単に紹介すると――
1人目は、もう一人のエンジニア。
この人もまたすごい人で、
僕は勝手に師匠だと思ってました。
人間味と論理と倫理観を兼ね備えていて、
僕はこの人が好きだった。
自分の人生のひとつのモデルケースみたいにも思っていた。
オンクリ2年目に入るタイミングで、
2ヶ月だけ在籍して、嵐のように去っていきました。
辞めた理由は、たぶん僕のせいもある。
でも、なんだか難しい、
ふわっとしたことを言って去った。
それでも僕は今でも尊敬しています。
いつかまた会えたら、
焼き芋を食べながら、文化と神話の話をしたい。
彼の意見は貴重だ。
この人には「ありがとう」とは言わない。
でもまた焼き芋、食べましょう。
2人目はサントスさん。
サントスさんはブラジル人の日系3世で、
帰国の必要があって、一身上の都合で辞めた。
一見すると僕のせいじゃないように見えるかもしれないけど、
でも「僕という要素がゼロだったか」と言われたら、
たぶんゼロじゃない。
サントスさんは給与が高かった。
だから当然、期待値も高くなった。
その中で、言いづらいこともあったんだと思う。
ただ、これは今となっては、
どっちが悪いという話じゃないとも思ってます。
お互いに気遣いの中で言えなくなって、
見ている景色が少しずつズレていった。
僕は「気を遣う」という行為が、時々むずかしい。
それが優しさとして働くときもあるけど、
同時に、言わないことで
お互いが負担を抱えることもある。
守ろうとした沈黙が、
別の場所にひびを入れることがある。
サントスさんがいてくれたことで、
創業初期の不安定な会社に、
精神的などっしり感が生まれました。
サントスさんがよく言っていた
「全てに意味があります。」という言葉は、
今も僕の中で生きてます。
ありがとう、サントスさん。
3人目は、ふみさん。
多分これも、サントスさんと似たところがある。
でもありがたいのは、
ふみさんとは今でもよく仕事をしています。
オンクリは自分たちで、
動画撮影・制作・写真撮影もします。
ただ、大きな案件や、
技術的に頼りたいときは、ふみさんにお願いする。
ふみさんが入社した当初、
オンクリは人を募集していなくて、
映像や写真の仕事もほぼなかった。
それでも「いいですか?」と聞いた上で、
入ってくれた。
でも仕事は爆発的には増えず、
窮屈な思いもさせてしまった。
居場所をしっかり用意できなかった。
その話も何度かした。
結局そこをクリアできず、
ふみさんは退職して独立した。
ちなみに彼は今、
フリーランスのフォトグラファー・ビデオグラファーとして
大活躍しています。引く手数多だ。
僕は、筋が通っていないと感じるものや、
主観だけで固まってしまった言葉に、
少し距離を取りたくなる癖がある。
それはたぶん、冷たい側面として出る。
ふみさんには、
その片鱗を見せてしまったこともあると思う。
それでもふみさんは、
僕との関係を断ち切らずにいてくれる。
ありがとう。ふみさん。
「仲間が減った」との向き合い方
僕は結構ドライです。
人が辞めたとき、
意外とスイッチを切り替えられる。
というのも、
「生きる」ことが人生の中心にあると思っているから。
「生きる」には、たくさんの要素がある。
その中の「働く」を一緒にできたことだけでも嬉しいし、
みんなの人生のゴールの方向は、
それぞれ全然違う。
たぶん山登りの途中で、
2合目から3合目まで、
たまたま一緒に歩いた。
それくらいの話だと思ってます。
だから、こう思う。
「幸あれ!」。
兄のときも、
意外とすんなりしてました。
兄は兄で決めたことをやる。
僕も僕で決めたことをやる。
以上。
でも、やっぱり寂しくはあります。
祖父について
オンクリの話をするのに、欠かせないのは僕のじいちゃんです。
名前は土屋義春。(92歳・享年)
今のオンクリの事務所がある古民家に住んでいた、張本人です。
せっかくなので、祖父の人生を、僕なりに追体験してみます。
祖父は当時の長野県望月町の片倉で、
農民の土屋家の次男として生まれた。
背は低いけど、喧嘩はめちゃくちゃ強かったらしい。
本人曰く、気に入らない奴は全員殴っていた、と。
この荒々しさは、多分父である作治から来ている。
まさに昭和の親父で、
納屋に閉じ込められたり、棒でぶん殴られたりしたらしい。
母親は優しい人だったそうだ。
家は山に囲まれていて、
小さい頃から山を庭みたいに飛び回っていたらしい。
ガキ大将ってやつだ。
生まれたのは昭和5年。終戦の15年前。
祖父は15歳で、
もう少しで戦争に行っていたかもしれない、とよく言っていた。
ばあちゃんも言っていたけど、
当時は「戦争に行くのが怖い」という感覚は薄かったらしい。
人間の慣れって、すごい。
終戦当時は、高崎の軍事工場で何かを作っていたらしい。
そして15歳まで時計が読めなかった。
工場で「時計を読め」と言われて、
読めるふりをしたらバレたらしい。
土屋家で有名な話です。
学校には行けなかったらしい。
家が貧しくて、両親の農業を手伝い、弟妹の面倒を見ていた。
今で言うヤングケアラーだ。
ここまで読むと鉄人みたいだけど、
高崎に着いてからは毎晩母親が恋しくて泣いていたらしい。
意外と人間らしい。
ただ、工場近くの柿の木を盗み食いして、
いつも怒られていたらしい。やっぱり人間だ。
戦争が終わって長野に戻ってきてからは、
土屋家の本家からは出て、
農地改革で与えられた長者原――
今のオンクリの事務所がある場所で、
ゼロから農業を始めた。
本人曰く、
ただの山だった場所を斧一本で木を倒して開拓したらしい。
これが本当かどうかは、正直、分からない。
本当に山だったのか、ある程度整備されていたのか。
真実は闇の中。
でも大変だったのは間違いない。
僕が当たり前のように使っている古民家・オンクリの事務所は、
祖父の血と汗の結晶だ。
それから、農業をしているところに原家の姉妹が手伝いに来ていた。
それが後の僕の祖母、亀代です。
亀代は原家の長女。
母親は亀代が10歳の時に亡くなった。
家が貧しくて、
父親の要さんは大層優しい人だったらしい。炭焼きをしていた。
亀代は母親代わりとして、妹たちを育ててきた。
だから大叔母たちからの亀代への信頼は厚い。
ここで安心してほしいのは、
祖父は5年前に亡くなったけど、亀代は今も元気です。
今年95歳。
好きな食べ物は、ハンバーガーとパスタとグラタン。
食が細くなるはずなのに、
会うなり「お腹すいた。何かうまいものないか」って
せびってくる。末恐ろしい。
話を戻す。
当時祖父は24歳。
今よりずっと早いテンポの時代で、
もう結婚していないとおかしい年齢だったらしい。
周りに言われた祖父は、
手伝いに来ている原家の娘をもらうことにした。
原家には近所でも評判の綺麗な妹がいて、
周りは当然そっちだと思っていたらしい。
でも祖父が選んだのは亀代だった。
「なんでばあちゃんを選んだの?」と聞いたら、
照れくさそうに「覚えていない」と言っていた。
でも、祖父は亀代に優しかった。
喧嘩もしていたけど、
足や目を悪くしてからは料理も家事も全部やっていた。
最後まで義春は亀代を大事にしていたんだと思う。
二人はよく働いた。畑が好きで、暇さえあれば外にいた。
僕と祖父が休憩を長くすると、
亀代はよく怒っていた。
たぶん、そのくらい“場を回す力”があった。
その結果、土地付きの家を3件建てるほどになった。
調子に乗った孫(僕)に車を買い与えるほど。
でも二人は贅沢をしなかった。
僕が最新車に乗っている横で、
二人はずっと納豆を食べていた。
あれは一種の哲学だと思う。
ただ、祖父には借金もあったらしい。
本人曰く「悪いことは大体やり尽くした」とのこと。
亀代がそれをコツコツ返して、ある年、
貯金箱をひっくり返して茅葺き屋根の家を建てた。
当時の二人にとっては、自分たちの城だったはず。
でも建てた次の日に台風で家ごと飛ばされたらしい。
亀代は「死のうかと思った」と後々語っている。
人生って、たまにやりすぎる。
それでもめげずに、二人は野菜を作り続けた。
3人の娘に恵まれ、なんとか昭和を生き抜いた。
その三女が、僕の母です。
土屋家には男の子が生まれなかった。
祖父は農業を継いでほしかったと思うけど、
誰も継がず、土屋家の農業は一旦途絶えた。
いつか僕がやるつもりではある。
僕には兄がいるので、
順当に行けば兄が次の当主だ。
祖父の生前、兄と祖父と僕でよく、
農業を継ぎたいという話をしていた。
その時の祖父の顔は、
嬉しいような、厳しいような、
ちょっと言葉にしづらい顔だった。
祖父には孫が多分10人、ひ孫が12人いる。
その中で男は僕と兄だけ。
祖父が僕らを少し特別に思っていたんじゃないか、
という気配はある。
祖父に聞いたことがある。
孫やひ孫の中で、可愛い・可愛くないはある?
祖父は言った。
「そんなことはない。みんな等しく、俺の娘たちで、孫たちで、ひ孫たちだ。」
立派だと思う。
でもたぶん、僕や兄のことは少し特別に見ていたと思う。
いとこが金髪にしたり学校を辞めたりした時、
祖父はひどく怒ったらしい。
でも僕は、祖父に怒られたことがない。
兄もたぶんそうだ。
髪を染めても、タバコを吸っても、
祖父の軽トラをでっかいU字溝に落としても、怒られなかった。
でも祖父はそれを言葉にしなかった。
本音を言わない優しさ、みたいなものがあった。
人には本音と建前がある。
でも本音を言ってはいけない時もある。
僕は祖父のそういうところが好きで、
たぶん、その一部を受け継いだと思っている。
母曰く、祖父は昔めちゃくちゃ厳しかったらしい。
母は頭が良かったが、大学には行かせてもらえず、
地元で就職した。
それでも祖父は、人を助けた。
孫たちの学費を出したり、僕には車まで買った。
だから、僕ら孫も、ひ孫も、
祖父のことが大好きだった。
ただ、祖父は家族の外では、
うまく関係を作れなかったらしい。
自我が強くて、曲げない。
若い頃は殴られることも多かった。
友達と呼べるような人は、
あまりいなかったんじゃないかと思う。
だからこそ、家族というコミュニティだけは
守ろうとしたのかもしれない。
特に僕や兄には。
ある日、兄のバイクを冬の間、祖父の家に保管する時、
後ろからしまうか、前からしまうかで、兄が怒っていた。
ここで言っておくと、
僕の兄の“怒る”は、普通のそれじゃない。
相手の心が折れるまで言葉を積む。
僕は正直、冷や汗をかいた。
祖父も怒ると怖いから。
「同じ血がやり合ってるな」と思った。
でも祖父は笑っていた。
およそ人間とは思えない言葉が飛んでいても、笑っていた。
祖父はきっと、家族だけは壊したくなかったんだと思う。
不思議と祖父と僕は、ウマが合った。
祖父は派手なことが嫌いだった。
事業拡大とか、儲かる話とか、
そういうのに興味が薄い。
ひたすら野菜作りの技術を磨いていた。
僕が今でも尊敬してやまない、農業法人の社長のYさんに話を聞くと、
祖父の野菜はとにかく綺麗だったらしい。
綺麗な野菜は、美味しい。そして手が込んでいる。
近場の農家さんからは、笑われていたかもしれない。
機械でやれば済むこと、
やらなくてもよさそうなことを、
全部手でやっていたから。
変わり者だと思う。
でも、それを評価してくれる人がいたことがありがたい。
本人はただ、自分が納得するまで同じことをやり続けた。
祖父は孫たちに、惜しみなく、不器用な愛を注いでくれました。
そんな祖父が、2021年8月20日に亡くなった。
原因は胃がん。
祖父は鉄人だった。
病気をしたこともないし、亡くなる半年前まで野菜を作っていた。
すたすた歩いていたし、
怪しい自作の健康ドリンクを大量に飲んでいた。
まさに、ぴんころに近い。
祖父がある日、「病院に行きたい」と言い出した。
意地でも病院に行かない人が。
なんだか、ものを食べれないらしい。胃に違和感があって。
藁切りカッターで、指を切っても、薪割り器で指を潰しても、すぐに退院して嬉しそうに作業を続けていた。
なんだかジェフベゾスのおじいさんみたいだ。
たまたま個人事業主で暇だった僕は、祖父の胃カメラに付き添って病院に行った。そこで先生から「がんです」と僕にだけ伝えられた。
91歳だったので、驚きはしなかったけどとりあえず本人には伝えず。
でも、帰りの車で祖父がこう言った。
「俺はもうダメかもしれないなー。」
と、分かっていたのか、余裕をこいていったのかはいまだにわからないけど。
そこで「死」の話もしたのも覚えている。
「俺が死ぬのはいい。死ぬだけだから。でも残された人は悲しいよなー。
なんかおらは自分で自分が寂しく見える。」
と。
祖父は生前、人が死ぬ時は分かる。と言っていた。
僕は冗談半分に聞いていたけど、人が死ぬ時はなんだか背中が小さくて寂しく見えるらしい。
それは年老いた人にだけ言っているのではなく、若い時にも仲間や会社の同僚が亡くなった時も当たったらしい。
勘というのはあなどれない。
それから半年で人が変わったほど衰弱して、そのまま亡くなった。
最後は、痛み止めの影響もあって、
生きている実感は薄かったと思う。
祖父が亡くなる2日前、
僕と兄で面会に行った時、痛み止めで朦朧としているはずの祖父は驚くほど元気になった。
いきなり立ち上がって
「もう一度望月に帰る。これで最後になる」
と言っていた。
まあ、帰れなかったわけだけど、
死ぬ前に元気になる、あの現象なんだと思う。
祖父は僕と兄に言った。
「俺はもう多分生きられない。
ここからはお前たちの時代だ。任せたぞ。」
僕はその言葉を一生忘れない。
次の日、祖父は亡くなった。
亡くなる瞬間にも立ち会ったが、
前日が嘘だったように、骨と皮だけになっていた。
彼は多分、僕と似ている。
大きな枠組みの中での良し悪しを知りつつ、
それでも無意識が、その通りに動くことを許さない。
その狭間で、人間らしく生き抜いた。
母から聞いた話だが、
祖父の葬式に、
Yさん(祖父の知り合いでもあった)、が来て泣いていたらしい。
僕はその人が泣くところを見たことがない。
でも、祖父の人生そのものである畑や野菜を褒めてくれたことは、
祖父にとって何より嬉しかったはずだ。
僕にとっても、
祖父をその視点で見てくれる人がいたことが、本当に嬉しかった。
僕は祖父のことを、ただの祖父として見ていない。
彼は戦士であり、孤独であり、誰よりも人間だった。
呪術廻戦の、あの「こっち側」の感覚が、
たぶん僕には分かる。
(うまく言えないけど、分かる人には分かるやつ。)
僕は、祖父のように生きたい、じゃなくて、
祖父になりたい、と思っている。
不器用だけど、人間らしく、孤独に生き抜く。
それが、彼が生きた証であり、意味だと思う。
最近思うこと
僕はいつも何かを考えている。
そのアウトプットを幼馴染に投げていたら、
「もう考えるな」と言われたことがある。
その時、
「こいつ、やるな」と思った。
そのくらい、僕は面倒くさい。
最近よく思うのは、感覚の世界の話。
僕は昔、感覚の世界を少し軽く見ていた。
今、僕らは目に見えないものを信じにくい。
幽霊とか、魂とか。
僕は正直、そういうものは「ない」と思っていた。
じゃあ何を信じるのか。
多分僕らは、文字と数字を信じて生きている。
証明できないものは、棚に置く。
でも最近は思う。
ゴリラだって、百年前までUMAだった。
縄文時代の人からしたら、スマホはテレパシーだし、
ライターは魔法だ。
電気なんて、超能力にしか見えない。
つまり、幽霊や魂があるかどうかじゃなくて、
「見えていないだけ」
「言語化できないだけ」
って可能性もある。
人間の知能や言語は、万能じゃない。
いい例が神話だ。
ヤマタノオロチが製鉄技術の比喩だ、という説もあるし、
出雲大社は大和政権に対抗する勢力だった、みたいな話もある。
神話って、ただのファンタジーじゃなくて、
当時の人間が“言葉にしきれない現実”を包んだものなのかもしれない。
だから、目に見えないものを評価しないのは、ちょっともったいない。
最近はそんなふうに思うようになった。
1億円の絵と、1,000円の絵の違い。
10万円の寿司と回転寿司の違い。
そこには多分、数値にしきれない“厚み”がある。
これって生き方にも通じる。
なんで自然が良くて都会が微妙、
逆に地方は不便で都会は便利、
みたいな話になるんだろう。
お互い、それを言い合っている。
都会の人は「何もないじゃん」と言うし、
地方の人は
「あんなに人がいる場所で生きられない」と言う。
でも、別にそれって、好みで終わる話でもある。
「私はこっちが好き」それでいい。
両方に住んでいる僕からすると、どっちも良い。
どっちにも弱点がある。
どっちにも、そこでしか手に入らない空気がある。
便利さを追うのもいいし、静けさを選ぶのもいい。
ただ、どちらかを選んだ自分が、
選ばなかった世界を必要以上に否定すると、
自分の感覚が少し窮屈になる気がする。
歴史的に見ても、
武力でも宗教でもカリスマでも、
500年続く帝国はなかなか作れなかった。
今、世界を支配しているのはお金だと思う。
お金は目に見えるし、文字にも数字にもなる。
でも、そういうもの以外にも良いものはたくさんある。
お金は、その“良いもの”をなんとか形にしたものでもある。
そう思うと、お金も結構いい。
ただ、お金だけでは拾えないものも、確実にある。
オンクリが提供していること
話が長くなりました。ほんとに。
ここから僕個人ではなく、
オンクリが提供していることを書きます。
オンクリが提供しているのは、
「自分とか自社を、もう一度ちゃんと認識するためのツールづくり」
だと思っています。
それを形にすると、いろいろあります。
ヒアリング
テキストライティング
Web制作
ロゴデザイン
ノベルティ制作(ファイルとか)
チラシ・パンフ制作
システム開発
動画制作
写真撮影
SNS運用
みたいな感じ。
でもこれはあくまで表面です。
というのも、たとえば自画像を描くときに、
どのメーカーのどんなキャンバスを使うか、
みたいな話に近い。
道具は違っても、
“描いているもの”は同じだったりする。
何を使っても、自分の表現はできる。
だから僕らがやってるのは、
その人の表現を任されてること、だと思っています。
自己紹介をするときに、
それを誰かに丸ごと任せないじゃないですか。
でも今の時代は、
自己を表現するツールが溢れかえっている。
Web、SNS、動画、写真、ロゴ、言葉。
道具が増えたぶん、
「どう伝えたらいいか」は難しくなった。
だから僕らがいる。
より専門的な言葉を使って、
伝わる形に翻訳する。
英語への翻訳みたいに。
伝える先には、
いろんな文化や背景を持った人がいる。
同じ日本語でも、
同じ言葉でも、
受け取り方は違う。
そのズレを読みながら、
その人の良さや、らしさを、
ちゃんと届く形に整える。
僕らはその翻訳機能を持っていると思っています。
そして、表現や制作を通して、
本人が自分を再認識できる瞬間がある。
たとえば、日本人が時間に細かいって、
世界に日本人しかいなかったら、
認識しづらい。
海外の余裕のある人たちを見るから、
「あ、自分たちはこういう国なんだ」と分かる。
それと同じで、
自分を外に向けて翻訳していく過程で、
「あ、これが自分たちだったんだ」と
輪郭が出てくる。
それを顧客に提供しているのが僕たちです。
いろんな言語や文化を知っている。
だから、その人の良いところも、
弱いところも、
どう見せるかを考えて翻訳する。
そんな仕事をしています。
まあ、シンプルに言うと制作ですね。
ああ、そういうことか。
僕らは表現者なんだと思います。
以上!土屋のライティングでした
以上です。
さらっと読んでくれた方も、しっかり読んでくれた方も、ありがとうございます。
オンクリは命ある限り、表現し続けます。
オンクリ代表土屋の記事でした。